2007年09月20日
マケドニア王朝
マケドニア王朝は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)中期の王朝(867年-1057年)。
867年にマケドニア地方生れのアルメニア人農民出身のバシレイオス1世が、クーデターでアモリア朝3代目の皇帝ミカエル3世を倒して皇帝に即位し、新王朝を開いた。
バシレイオス2世バシレイオス1世の子孫からは法律や行政に優れたレオーン6世や、文化人として知られたコンスタンティノス7世などが輩出し、政治・経済・軍事・文化などの面で東ローマ帝国は躍進を遂げた。
コンスタンティノス7世の息子ロマノス2世の未亡人テオファノと結婚して帝位についた軍人皇帝ニケフォロス2世フォカスは、アンティオキアを約300年ぶりにイスラム勢力から奪回し、ニケフォロスを殺して帝位を奪ったヨハネス1世ツィミスケスも、ブルガリアやキエフ大公国軍を破り、シリア・パレスチナを制圧した。ヨハネスの死後実権を取り戻したロマノス2世の息子バシレイオス2世は東西で戦いを進め、1018年には宿敵第1次ブルガリア帝国を滅ぼして、ユスティニアヌス1世の時代以来最大の版図を実現。バシレイオス2世の下で南イタリア・バルカン半島・小アジア・北シリア・アルメニアを支配する東地中海の大帝国として、東ローマ帝国は最盛期を迎えた。
しかし、バシレイオス2世が後継者を残さずに没した後は、享楽的な弟のコンスタンティノス8世、ついでその娘の(バシレイオス2世の姪)ゾエの結婚相手が皇帝となったのだが、無能・老齢・病弱な皇帝が続き、農民の貧富の差の拡大や大貴族勢力の伸張、財政破綻、トルコ人の侵入といった問題にも有効な手が打てないまま、東ローマ帝国は衰退しはじめた。1054年にはコンスタンティノポリス教会とローマ教会が完全分裂(大シスマ)し、西欧との関係も悪化した。
1056年に女帝テオドラが没し、翌1057年にはテオドラの養子ミカエル6世ストラティオティコスが反乱で失脚したためにマケドニア王朝は断絶。以後30年近くに渡って内乱や外敵の侵入が相次ぎ、東ローマ帝国は滅亡寸前の状態となった。
この時代の東ローマ帝国は、それまでの完全実力主義的な社会から、血統を尊重する傾向が生じ始め、また同時に地方での軍事貴族の勢力が拡大しはじめた時期である。そのため何度かレカペノス家やフォカス家などの軍事貴族出身の将軍が帝位を簒奪することがあったものの、マケドニア王朝の皇族は排斥されず、簒奪者たちはマケドニア王朝と縁戚関係を結び、マケドニア王朝の正統な皇子は名目的な共同皇帝として残す形態が取られたのである。
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